2022年1月9日礼拝メッセージ
出エジプト記12:14-28
山本 進 牧師
1.聖書の救いの原型は過越である。罪に対して神の滅ぼしがあり、滅ぼす者が通り過ぎることが私たちの救いである。
2.通り過ぎるという救いの過越には、犠牲となるもの(羊)が必要である。その犠牲の血が過越のしるしとなる。それに沿えば、私たちのための犠牲はイエス・キリストであり、その十字架の血は神の裁きの過越のしるしである。それで、神はイエス・キリストの救いを告白する者に滅ぼす裁きをせず通り過ぎると言える。そして、裁かれなかった(赦された)、という思いと体験が地上での私たちの罪からの救いである。
3.教会はこの救いを語り伝えなければならない。聖餐式は、イエス・キリストが犠牲となった十字架の救いを表している。
4.私たちの救いは贖いである。贖いとは、犠牲の伴った救いのことである。出来るから救うというよりは、犠牲を払い、痛みを感じて救うのが贖いである。
5.種なしパンの教えから、私たちから神にふさわしくないものを取り除いていこう。
【本日の聖句】
あなたがたはこう答えなさい。「それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれた時、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私の家々を救ってくださったのだ。」すると民はひざまづいて礼拝した。
(聖書 新改訳2017 出エジプト記12:27)
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