2022年4月10日礼拝メッセージ
マタイ27:27-61
山本 進 牧師
十字架は罪に対する刑罰である。それでいきなり十字架につけられることはなく、罪に定められて十字架につけられるのである。イエス様の場合は不当な逮捕、はじめから罪あり、十字架刑にするという、結論先にありきの不当な裁判を受けられ、十字架につけられた。
父なる神は人のこのような悪質なわざを許して、罪深い人の、その犯す罪からの救いに道を開いた。そのためイエス様は犠牲となられた。元気な体を急速に死に至らされて、人々の身代わりとなられた。愛してくれているはずの父が見捨てることによって。そこには、人のからかいがあり、ののしり嘲りがあり、神を試す心があったが、その人たちの罪をも赦すためのみわざ、犠牲であった。
その中で、十字架を背負うことを強いられたクレネ人シモン、不思議な出来事の中、告白に、導かれた百人隊長、イエスを見守る女たち、イエスの弟子であることを明確にしたアリマタヤのヨセフがおられた。私たちは赦される。私たちもこちらの人であることを願おう。
【本日の聖句】
「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
(聖書 新改訳2017 マタイ27:46)
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