2021年6月6日礼拝メッセージ
創世記38:6-26
山本 進 牧師
1.信者はだましてもいいのか。創世記にはだましがある。この箇所はタマルがしゅうとユダをだました。このだましは、自分ではどうしようもないところからの人間的な策略、弱い立場の者がある権利を得るために強い者をだますことである。これはこれは許されることか。避けることだが、だますことしかなかったら、その罰を受けとめることかと思う。(これはリベカ・ヤコブのだましとともにイエス・キリストの系図に関わることであった。)
2.神はユダを通して、人は考えなしに簡単に裁いてはいけない。裁いたその反対の答えが返ってくることがあることを教えているのではないか。人は簡単に裁く裁判官になっていはいけない。へりくだり、物事を見聞きして判断しなければならない。人は人前で簡単に自分は正しいとしない方がよい。そのような人生を送っていると、私たちが神の御前の裁きを受ける時も、自分を正しいとしない性格ができていることが大きい。
3.ここでのしゅうとと嫁、婿としゅうとめの結婚は許されるか。聖書的には双方が独身であるので、結婚は許される。パウロは配偶者が亡くなった時、結婚の律法から解かれると言っている(ローマ7:2)。人間的には、ユダはだまされたことでもはやタマルを愛することはできなかった。これは人間である以上、しょうがないと思われる。
今日の聖書は難しい。積極的には 2.が受け入れられるが、1.と3.は消極的。
【本日の聖句】
ユダはこれを調べて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女をシェラに与えなかったからだ。」彼は二度と彼女を知ろうとはしなかった。
(聖書 新改訳2017 創世記38:26)
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